「ただいま」と言った。誰も返さなかった。
「ただいま」
その言葉が、玄関の空気に溶けて消えた。
返事はない。明かりもついていない。靴も、一足だけだ。
わかっていた。わかっていたのに、僕はその夜、しばらく玄関に立ち尽くしていた。
喪失は、静かにやってくる
母が亡くなったのは、昨年の秋のことです。
葬儀が終わり、諸手続きが片付き、日常が戻ってきた——と思っていました。でも実際には、日常は戻ってきていなかった。正確に言えば、前の日常はもう、どこにも存在していなかったのです。
喪失というものは、派手にやってこないのだと、僕は最近そう思っています。
泣き崩れる瞬間は確かにある。でも本当の喪失は、もっと静かな場所に潜んでいます。朝、目が覚めて電気をつける、その一瞬に。夜、仕事から帰って玄関のドアを開ける、その一瞬に。
誰もいない。
ただ、それだけのことです。でもその「それだけのこと」が、毎朝、毎晩、確実に積み重なっていく。
「すっぽり抜け落ちた」という感覚
うまく言葉にできなかったのですが、最近ようやく自分の気持ちに名前をつけられた気がしています。
「すっぽり抜け落ちた」という感覚、です。
悲しい、というのとは少し違います。寂しい、というのとも、少しずれている。何か大きなものが、自分の内側からごっそり取り出されてしまったような——そういう感覚です。
父を亡くしたとき、その感覚は確かにありました。でも母を亡くしたとき、それはもっと深いところに届きました。
自分でも驚いたのですが、僕はどうやらお母さん子だったようです。言われてみれば確かにそうだった、と今更ながら思います。人は、失ってから気がつくことがある。それはエンジンのオイルみたいなものかもしれない、と僕は思いました。あって当たり前で、なくなって初めてその存在の大きさを知る。
一人ぼっち、という静かな事実
還暦を過ぎて、一人暮らしをしています。
結婚はしていません。妹はいますが、彼女には彼女の生活があります。だから僕は、自分のことは自分で抱えていくしかない。それはわかっている。頭では、ずっとわかっていた。
でも、朝の電気と夜の「ただいま」が、その事実を毎日静かに教えてくれるのです。
怖くなったこともあります。父を亡くし、母を亡くし、確実に自分も死に向かって一歩ずつ歩いているのだという実感。それは恐怖でもあるけれど、どこか静かな納得でもある。
逆に、怖くなくなったこともあります。守るべきものの形が変わったからこそ、もっと自由に生きていいのかもしれない——そういう気持ちも、確かにある。
ただ、その「自由」に向かって一歩踏み出すのが、なぜかめんどくさい。体が重い、というわけでもない。ただ、何かがうまく噛み合っていない。エンジンはかかっているのに、ギアが入らないような感じです。
余白に、何かが宿っている
今日は、母の誕生日です。
生きていれば、90歳になりました。
僕はこの文章を、誰かのために書いているわけではありません。自分のために残しておきたい、と思って書き始めました。でも書きながら、もしかしたらこの感覚に共感してくれる人が、どこかに一人くらいいるかもしれない、とも思っています。
親を亡くした後の、あの「すっぽり抜け落ちた」感覚。朝の電気。夜の玄関。誰も返さない「ただいま」。
それは数字では測れない。見積もり書には書いてない。でも確かにそこにある、大切な何かです。
その余白を、僕はこれからも書き続けていこうと思っています。
この記事を読んで、誰かの喪失や孤独に寄り添う本を探している方へ。グリーフケアや「一人で生きる」ことを静かに支えてくれる書籍を、プロフィールページのリンクからご紹介しています。