最近、「MCP」という仕組みを知った。これを使うと、生成AIに頼めることの幅が、思っていたよりずっと広がるらしい。
MCPというものを知った
MCPは、Model Context Protocolの略で、AIと外部のサービスやツールをつなぐための、いわば共通規格だ。難しく聞こえるが、例えるなら電源プラグの変換アダプターに近い。国によってコンセントの形はバラバラでも、共通規格のアダプターが一つあれば、同じ充電器がどの国でも使える。MCPも同じで、AIとメールソフトの間、AIとカレンダーの間、AIとブログの管理画面の間に、それぞれ専用の変換アダプターを差し込む。すると、それまで机の前で助言をくれるだけだったAIが、実際に手を伸ばして向こう側の道具を動かせるようになる。
これまでのAIは、僕が聞いたことに答えるだけの、椅子に座った相談役だった。MCPは、その相談役に外に出る許可証を渡すようなものだと思う。
具体的に何ができるようになるのか
抽象的な話だけでは実感が湧かないので、実際に僕がやってみて「これは便利だ」と思った例を三つ挙げてみる。
一つ目は、このブログのようなWebサイトへの接続だ。過去記事を読み込んで文体を掴み、下書きを一緒に作ったり、そのまま投稿の準備をしたりできる。今日この記事を書いているのも、まさにその一例である。
二つ目は、メールやカレンダーの整理だ。受信箱に溜まった通知メールを内容ごとに仕分けたり、決まったフォーマットの記録にまとめたりする作業を任せられる。人間がやると地味に時間を食う、けれど頭はほとんど使わない作業ほど、この手の仕組みと相性がいいように感じる。
三つ目は、手元のノートやファイルの整理だ。撮りためた写真を意味のある名前で保存し直したり、雑多なメモを後から探しやすい形に整えたりする。書斎の掃除を、少しだけ手伝ってもらうような感覚に近い。
そんなふうにMCPの存在を知ってから、僕は今日、実際にこのブログ自体にAIをつなげてみることにした。記事の下書きを一緒に作ったり、過去の投稿を読み込んで文体に合わせたりできるようにするための、ごく事務的な作業のはずだった。
「承認できたかどうか、赤いバーが空のまま出るかどうかで分かります」
そう言われて、少し身構えた。
ところが最初の一歩で、早くもつまずいた。サイトの手前にセキュリティの関所が立っていて、AIからの接続要求を音もなく弾いていたのだ。「承認ページが空の赤い通知だけを出したら、それがブロックの合図です」というAI側の説明を読みながら、僕はなんとなく可笑しくなった。門番は、断るときほど何も言わない。
静かな関所
結局、リンクをもう一度開いたら、あっさり通った。ログイン済みのブラウザからなら通過できる関所だったらしい。拍子抜けするほど呆気なかったが、この一連のやり取りには、ちょっとした示唆があるように思う。
新しいものを迎え入れるとき、最初の関門は大抵、技術的な難しさではなく「本当にこれを通していいのか」という確認の儀式だ。ワンクリックで済むはずの承認に、わざわざ一呼吸置かせる仕組みがある。急がせない。勝手に通さない。振り返れば、これは悪くない設計だと思う。
轍を一緒に刻む、ということ
さて、肝心の「AIとブログ記事を書く」という話である。
接続が済むと、AIはこのブログの過去記事をいくつか読み込んで、文体や間の取り方を掴もうとしてきた。伝票の話をした記事、ドライブの記録、亡くした親についての文章。そういうものを踏まえた上で、「今日の出来事を素材に、こんな記事はどうですか」と提案してくる。
正直に言うと、便利だ。真っ白な画面に向かって最初の一行を絞り出す苦しさが、かなり軽くなる。構成を考える、言葉を選ぶ、といった作業の一部を肩代わりしてくれる同乗者が増えた感覚に近い。
ただし、である。AIが読み込めるのは、あくまで紙に落ちた後の言葉だけだ。以前この場所で書いたように、言葉は紙に落ちた瞬間、立体をやめる。整備工場の伝票と同じで、頭の中にあった生の体験——エンジンをかけた瞬間の緊張や、峠道でふと浮かんだ小さな気づき——は、AIには渡らない。渡せるのは、僕がすでに平面に変換したものだけだ。
だからAIは、素材を並べたり、言い回しを整えたりはできても、その素材をそもそも「面白い」と感じた最初の瞬間には立ち会えない。運転席に座って、道を選び、ハンドルを切っているのは、結局いつも僕の方だ。AIは助手席から地図を広げて、「次の角を曲がると景色がいいですよ」と教えてくれる同乗者ではあるけれど、轍を刻んでいるのは僕自身のタイヤだ。
それでも、悪くない道連れ
門番に一度止められ、もう一度リンクを開いたら通してもらえた。今日の小さな出来事は、AIとの付き合い方そのものを表しているような気がする。
最初から全部を明け渡す必要はない。関所は関所として残しておいていい。その上で、退屈な下ごしらえや、言葉を整える手間の一部は、任せてしまってもいいのかもしれない。運転する楽しさまで奪われなければ、同乗者は多い方が、道中は賑やかで悪くない。
この記事自体も、実はそのAIとのやり取りの中から生まれた一本だ。次にどんな記事が、どんな轍から生まれるか。しばらくは、この新しい同乗者と一緒に、走りながら確かめていこうと思う。