スタンプラリーと呼ぶなかれ――十三年かけた坂東三十三観音の結願

投稿者: | 2026年8月23日

ある札所の入口に、こんな貼り紙があった。

「軽い気持ちでお越しにならないでください。ここは信仰の場であることをわきまえていただけますようお願いします」

御朱印代――浄財――はきちんと納めている。参拝もしている。それなのに、なぜこの文言がこれほど刺さったのか。もし本当に宗教行為だと言うなら、作法通りに参拝を済ませてから納経し、御朱印をいただくのが筋のはずだ。逆に言えば、そこだけを切り取ってしまえば、たしかにスタンプラリーと言われても仕方がない面もある。そう思う自分がいる一方で、そもそも御朱印にお金が絡む時点で、そこには経済の下部構造――唯物史観的な意味での経済――が動いている、という身も蓋もない見方も拭えなかった。

坂東三十三観音を三十三ヶ寺、十三年かけて巡り終えた今、あの貼り紙のことをまた思い出している。この巡礼が、そもそもどうやって始まったのかを振り返りながら。


最初のきっかけは、竹の塚の炎天寺だった。一茶ゆかりの寺で、「蝉鳴くや六月村の炎天寺」「やせ蛙負けるな一茶是にあり」を残した場所である。中学の頃、ここで開かれる「一茶まつり」の句会に句を出し、入選したことがある。何を詠んだかはもう思い出せないが、自分の言葉が選ばれたという小さな手応えだけは、妙に長く体に残っていた。

X(旧Twitter)のアカウント自体は、サービス開始してすぐの頃に一度作っている。ただ当時はまだ日本語がほとんど通らず、英語だけの世界に馴染めずにやめてしまった。再開したのは2009年頃、東日本大震災より前のことだ。日本語が使えるようになり、日本人のアカウントも増えていた。特別なきっかけがあったわけではない。ただ何となく、また触ってみようと思っただけだった。

再開したはいいものの、何を書けばいいのか分からなかった。日常の些事をつぶやくのも気恥ずかしく、しばらくは手が止まっていた。そんな時にふと気づいたのが、あの140字という短さだった。これは俳句にちょうどいいのではないか――中学の頃の句会の記憶がよみがえり、そこから俳句を投稿することに決めた。文字数の制約が、逆に始めるハードルを下げてくれたのだ。

俳句を続けるうち、季語を通じて暦そのものに興味が向くようになった。決定的だったのは俳句ではなく、古今和歌集の一首だ。在原元方の「年のうちに 春はきにけり ひととせを こぞとやいはむ 今年とやいはむ」。旧暦では、年が明ける前に立春が来てしまうことがある。それを詠んだ歌に、暦のずれというものの面白さを初めて意識させられた。

もともと寺より神社の方が好きで、信仰として通う習慣があったわけではない。ただ、俳句を始めてから、そこに神社や寺があるということ自体を意識的に見つけるようになった。そして最近になって、「この神社はなぜここにあるのか」と問うようになったのは、ちくま新書の『廃仏毀釈』を読んでからだ。今回、巡礼の歴史を広くリサーチしたいと思った動機も、突き詰めればこの一冊に遡る。


坂東三十三観音を知ったきっかけは、正直もう覚えていない。おそらくネットで見かけたのだろう。一番札所の杉本寺から発願したのが平成24年9月16日。運命的な何かを感じたわけではなく、単なる好奇心だったと思う。ただ、日本史が好きな人間の好奇心は、思いのほか長く続くものらしい。

後になって知ったことだが、日本最古の巡礼路と伝わる西国三十三所観音巡礼は、養老2年(718年)、長谷寺の徳道上人が閻魔大王から「世の苦しむ人々のために三十三の観音霊場を作り、巡礼を勧めよ」との託宣を受けたことに始まると伝えられる。もっともこの信仰はすぐには広まらず、実質的な起源とされるのは平安時代の永延2年(988年)、花山法皇が播磨国の性空上人らと共に宝印を探し出し、熊野から三十三所を巡拝して再興を祈願した出来事だという。史料上で確認できる最初の巡礼者は、12世紀の天台僧・覚忠。それまでの二百年近く、観音巡礼はもっぱら修験者や修行僧だけのものだった。

この西国の枠組みが東国へ移植されたのが坂東三十三観音であり、秩父三十四観音である。江戸時代には西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」と呼び、これを結願することが庶民の一つの目標になった。物見遊山の要素も加わり、観音巡礼は身分や老若男女を問わない大衆文化へと育っていく。

坂東三十三観音という枠組みそのものは、鎌倉幕府の成立とも無縁ではないらしい。源頼朝の篤い観音信仰を背景に鎌倉初期に形成されたと伝わり、その実在を裏付ける天福二年(1234年)の墨書銘も残っているという。杉本寺の山門をくぐった時の自分は、そんな史実を何も知らなかった。ただ、好奇心のままに一番札所を選んだだけだった。それが八百年近く前の武家政権の信仰と地続きだったと知ったのは、ずっと後になってからのことだ。

順調に回っていた巡礼は、第二十番・西明寺(平成26年8月15日)で止まる。平成28年頃から両親の介護が始まり、転職はその渦中の出来事だった。次に札所を踏むまでには、実に6年の空白ができた。

再開のきっかけは、母の逝去だった。第二十一番・日輪寺を訪れたのは令和2年9月10日。そこから改めて歩みを進め、第三十三番・那古寺で結願したのが令和7年9月21日――発願からちょうど13年が経っていた。


巡礼の後半、ある札所では撮影とSNSへの投稿が禁止されていた。理由を尋ねると、「どこで何をしたかをわざわざSNSに上げるのは、承認欲求を満たすだけの自己満足だ」という趣旨の答えが返ってきた。境内の写真は控えることにしたが、正直なところ、半分は納得し、半分は釈然としないままだった。広く情報を伝えること自体は、悪いことではないはずだ。ただ、それを望まない相手がいるなら、そこには最大限の配慮が要る――そのくらいの整理しかできていない。

そもそも御朱印は、写経を納めた証、いわば「納経印」として授けられたものだったという。今、手元に積み上がった御朱印帳の一つ一つは、その来歴のどのあたりに位置しているのだろうか。

結願を終えてなお、「巡礼とは何か」「発信するとはどういうことか」という問いは、答えが出ないまま自分の中に残っている。次はこの、御朱印とスタンプラリーをめぐるもやもやについて、もう少し考えてみたい。

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