夜、たまたま流れてきた一本の文芸評論を読んでいて、手が止まった。
夏目漱石『草枕』に繰り返し現れる「鏡」と「影」を、丹念に読み解いていく文章だった。著者はそこから、ある一つの結論を導き出していた。創作とは、対象そのものを写し取ることではない。むしろ、先行する作品——つまりジャンルという型——を写す行為なのだ、と。
画家が景色を描くとき、実は景色そのものだけでなく「絵画という型」自体を模倣しようとしている。俳句を詠むときも、小説を書くときも同じだ。型を踏まえなければ、そもそも俳句にも小説にもならない。
読み終えて、しばらく画面を見つめたまま考えていた。これは、書くという行為そのものについての、かなり手厳しい指摘ではないか。
型の外には、何もない
何かを作るという行為が、結局は型の反復にすぎないのだとしたら、そこにオリジナリティの居場所などあるのだろうか。
最初は、少し窮屈に感じた。自分の言葉で何かを表現しているつもりでも、それは結局、これまで読んできた文章の型をなぞっているだけなのかもしれない。型の外に立って、まっさらな状態から何かを作ることは、原理的にできないということになる。
でも、考えてみれば当たり前のことでもある。日記を書くときでさえ、私たちは無意識に「日記らしい文体」を選んでいる。SNSに投稿するときは「SNSらしい言葉遣い」を選ぶ。型を選ばずに言葉を発することは、実はほとんど不可能に近い。
型とは、不自由の象徴のように思える。だが本当にそうなのだろうか。
型から逃れる困難
ここで、思い出した言葉があった。経済学者ケインズが『雇用・利子および貨幣の一般理論』の序文に書いた一節だ。
新しい経済理論を打ち立てる難しさについて、彼はこう述べている。難しいのは新しい考えそのものではなく、古い考えから逃れることにある、と。
旧来の経済学に骨まで浸かった学者ほど、新しい枠組みを受け入れがたい。それは頭の良し悪しの問題ではなく、染みついた語彙と思考の癖の問題なのだ、とケインズは言う。この本を書くこと自体が、自分自身の中にある古い思考習慣との、長い格闘だったのだとも書いている。
これは、先ほどの創作論とは逆向きのベクトルを持つ言葉だ。片方は「型を写すことでしか何かは作れない」と言い、もう片方は「型から逃れることがいかに難しいか」と言う。矛盾しているようにも見える。
だが、しばらく考えて気づいた。この二つは、実は対立していない。型を写す苦労もなく、型から逃れることはできない。型に骨の髄まで浸かっていなければ、そもそも脱ぐべき型すら手に入らないのだ。逃れる対象がなければ、逃走という行為自体が成立しない。
つまりこの二つの言葉は、矛盾ではなく、同じ弧の異なる区間を指しているにすぎない。
守破離という補助線
この構造に、日本の芸道は古くから名前をつけてきた。守破離である。
型をひたすら守る段階。型を破って、自分なりに崩していく段階。そして型を離れ、独自の境地に至る段階。茶道でも剣道でも書道でも、まず何年もかけて師匠の所作をそっくりそのまま模倣することから修行が始まる。基本の型を体に叩き込まなければ、崩すべき型そのものが存在しないからだ。
この三段階として語られることが多い言葉は、先に挙げた二つの主張——型の模倣と、型からの脱出——をきれいに接続してくれる。
守がなければ、破も離もない。型の模倣を軽んじる者に、型からの自由は決して訪れない。ケインズの言う「古い考えから逃れる困難」は、まさに「守」の段階で骨の髄まで染み込んだ型の重力の強さを、破・離の立場から語ったものだったのだ、と腑に落ちた。
これで話が綺麗にまとまった、と思っていた。
それでも、型に安住してはいけない
ところが、もう一冊の本がその手前で止まっていた足を、また一歩前に進めさせた。世阿弥の『風姿花伝』である。
風姿花伝の核心は「花」という概念にある。有名な一節にこうある。秘すれば花なり、と。
隠しているからこそ花であって、見せてしまえば花ではなくなる、という意味だ。つまり花とは、固定された技術や完成された型のことではない。観る者にとって常に新鮮な驚きであり続けること、そのものを指している。
さらに世阿弥は続ける。ある時期にどれほど高く評価された芸であっても、そこに安住した瞬間、それは花ではなくなり、ただの型に成り下がる。だからこそ能役者は、年齢や時代、観客に応じて、絶えず自分の芸を更新し続けなければならない。
これは、守破離が暗に示していた「型からの卒業」というゴールを、そっと退ける教えでもある。離れた先に、新しい住処を作ってはいけない。住する所なきを、まず花と知るべし——世阿弥はそう書いている。花であり続けるとは、型を一度壊して終わりにすることではない。永遠に型を作っては、また壊し続けることに他ならない。
円環の中にいる
こうして三つを並べてみると、一つの円環が見えてくる。
型を写すところから始まり(創作論)、写した型から逃れようともがき(ケインズ)、その苦闘を守破離という形で捉え直し(守破離)、逃れた先の新しい型にすら安住しない(風姿花伝)。
この円環に、終着点はない。あるとすれば、それは動きを止めた瞬間、つまり何らかの型に「安住」してしまった瞬間だけであり、そここそが創作の死なのだろう。
このことは、文章を書くという営みにも、そのまま当てはまる気がしている。誰かの文体を真似ることから始まり、そこから外れようともがき、やがて自分なりの型ができたと思った瞬間、いつの間にかまた別の型に安住しはじめている自分に気づく。
読むという行為もまた同じだ。過去に読んだ作品の型を通してしか、私たちは新しい作品を読むことができない。だからこそ、同じ本を読み返すたびに、違う顔を見せる。変わったのは本ではなく、読み手自身の型が、少しずつ更新されているからだ。
型は、通り過ぎるための風景
型は敵ではない。かといって、安心して住み着ける居場所でもない。
型とは、通り過ぎるためにだけ存在する風景のようなものなのだろう。立ち止まって眺めることはできても、そこに家を建ててしまった瞬間、景色は景色でなくなる。
秘すれば花。型を出た先に、また新しい型がある。その往復運動をやめないことだけが、花であり続けるための、たった一つの方法なのかもしれない。
今日書いたこの文章もまた、いつか読み返したとき、自分がすでに一つの型に安住していたことに気づかされる文章になるのかもしれない。そうであってほしい、とすら思う。それに気づけるということ自体が、まだ動き続けている証拠だからだ。