30年前は挫折、今は「えーと」まみれの独り言がAIに助けられて記事になる

投稿者: | 2026年8月30日

AIは手間を消したのではなく、手間の置き場所を変えただけである。理由は、30年前に自分を挫折させていたものの正体を振り返ってみると、それが「聞き取れない」「読み取れない」という本質的な難しさではなく、道具の使いにくさという枝葉の部分だったと気づいたからです。

私はいま、AIによる音声入力・文字起こしのワークフローを日常的に使っています。今回はその話を、30年前の自分の失敗と比較しながら、少し掘り下げて整理してみようと思います。

30年前、何に挫折していたのか

30年ほど前、私は新聞や雑誌の記事をスキャナーでOCRにかけ、出力されたテキストを校正してワープロに保存する、という作業をよくやっていました。音声のほうは、録音を聴きながらキーボードで手打ちしていました。

これが、何度やっても長続きしませんでした。当時の自分は「聞き取りや読み取りが難しいから疲れるのだろう」と漠然と思っていましたが、今回改めて記憶をたどってみると、実際に自分を消耗させていたのはそこではありませんでした。

具体的に思い出せるのは、ソフトの動作が重くてストレスだったこと、OCRの出力に余計なスペースや改行が入っていてその手直しが面倒だったこと、そして見出しのないベタ記事をどうファイルに保存するか——日付ごとにまとめるべきか、記事ごとに分けるべきか——という、地味だが答えの出ない悩みが延々と続いたことです。当時使っていたワープロソフトは今のアプリのように軽快には動かず、少し長い文章を扱うだけで動作がもたつきました。その待ち時間のあいだに集中力が切れて、結局その日はそこで作業をやめてしまう、ということを何度も繰り返した記憶があります。

つまり、当時の私を消耗させていたのは「読む・聞く」という作業そのものではなく、「整形する」「保存の仕方を決める」という周辺作業のほうでした。認知負荷の研究では、負荷を三種類に分けて考えます。課題そのものが本質的に持っている難しさ(内在性負荷)、課題の本質とは関係のない、道具や説明の不備によって生じる余計な負荷(外在性負荷)、そして学習の理解を深めるために能動的に払う負荷(学習関連負荷)の三つです。この枠組みに当てはめると、当時の自分を苦しめていたのは内在性負荷ではなく、外在性負荷のほうが主犯だった、ということになります。

これは今になって気づいたことで、当時の自分は「自分には向いていないのだろう」くらいに思って諦めていました。実際には、向き不向きの問題ではなく、単に当時のツールがまだそこまで育っていなかっただけだったわけです。この区別に気づかないまま「自分には根気がない」と結論づけてしまうのは、今振り返るともったいなかったな、と思います。

ちなみに、ファイル管理に悩んでいたこの状況は、決して私だけの特殊な話ではないようです。ヴァネヴァー・ブッシュという科学者が1945年に発表した論文で、人間の記憶が機械的な分類ではなく連想によって機能することに着目し、情報を連想でつないでいく「メメックス」という構想を提示しています。これは後のハイパーテキストやWiki、タグ機能の源流になった発想だそうですが、逆にいえば、当時はまだそうした個人向けの情報整理の仕組み(いわゆるPKMツール、パーソナルナレッジマネジメントツール)がほとんど存在せず、私のような一介の個人が、道具の助けもないままその課題に単独で直面していた、ということでもあります。今ならNotionやObsidianのようなツールがありますが、それでも「どう分類するか」で迷う、いわゆる決断疲れは残っているので、これは時代を超えてついて回る、普遍的な悩みの一種なのかもしれません。

AIに記憶を預けるということ

挫折の話に入る前に、もう一つ触れておきたい論点があります。それは、AIによる効率化が「記憶」というものにどう作用しているか、という点です。

心理学の実験で、インターネットで検索できるとわかっている条件では、雑学的な知識の中身そのものを覚えている割合が下がる一方で、「どこで調べればよいか」という在り処の記憶のほうは、きちんと保持されるという結果が報告されています。いわゆる「グーグル効果」あるいは「デジタル健忘」と呼ばれる現象です。中身を覚えなくなった代わりに、探し方を覚えている。これは一見、記憶力が落ちたようにも見えますが、心理学者のダニエル・ウェグナーが1980年代に提唱した「交換記憶」という考え方に照らすと、少し違う見え方になります。人間はもともと、知識をすべて自分の頭の中だけに抱え込んでいるわけではなく、家族や同僚など周囲の他者と分担して記憶を保持する生き物である、という考え方です。だとすれば、記憶の預け先が人からAIやデバイスに広がったのは、突然の異変ではなく、もともとあった仕組みの延長線上にある、自然な変化だと捉えることもできます。

ただし、これには留保もつきます。「在り処さえ知っていればよい」という発想には、教えてもらった情報が正しいかどうかを見抜く検証力が別途必要で、その検証力自体は、自分の中に蓄積された一次知識に根ざしている可能性がある、という指摘もあるからです。この主張自体、学問的に決着がついているわけではないようですが、「調べ方さえ知っていればいい」と言い切ってしまうのは、いささか単純化しすぎだろうと思います。

いま使っているワークフロー

現在は、音声入力アプリ「Typeless」とClaudeを組み合わせて使っています。以前はMacやGoogle標準の音声入力を使っていたのですが、誤変換や音声の途切れに不便を感じていて、YouTubeのAI系チャンネルの動画で知ったTypelessに乗り換えました。

Typelessは、話している最中のフィラー(「えーと」「あの」など)や言い直しを自動で整えて、要約的な文章にしてくれます。人間なら聞き流すような言い淀みまで拾って、意味のかたまりだけをすっと抜き出してくる感覚で、これが最初は正直、驚きでした。

やり方としては、短く音声で指示を出し、Claudeがそれを受けて整形・修正し、気になった箇所があればまた音声で指示を出す、という反復です。たとえば「さっきの部分、もう少し具体的に」とか「ここは箇条書きにして」といった指示を都度声で足していく形で、文章を箇条書きにしたいときなど判断が必要な場面だけ、自分でキーボードを使っています。基本的にはこの音声のやり取りだけで完結していて、今のところ困っていることは特にありません。ローカルで動くWhisperベースの文字起こしツールも試してみましたが、こちらも精度は十分実用的なところまで来ている印象です。

一方で、タイピングをしなくなったことで、文章を構造立てて考える力が鈍るのではないか、という不安も正直ありました。長い文章を書くときの「まず全体の骨組みを考えて、次に肉付けする」という感覚が、キーボードを打つ手の動きと結びついているような気がしていたからです。

この点について調べてみると、発達心理学者のヴィゴツキーが、話し言葉(外言)と書き言葉を質的に別のものとして区別していることを知りました。話し言葉は、目の前にいる相手と状況や文脈をすでに共有しているので、多少省略しても伝わります。ところが書き言葉は、読み手がその場にいないため、文脈の共有を前提にできず、思考をきちんと言葉として明示化し、構造化することが要求される、という理屈です。

だとすると、構造的思考を鍛えていたのは「キーボードを打つ」という手先の動作そのものではなく、「考えを、読み手が不在の状態でも通じるように言葉として外に出し、構造化する」という作業のほうだった、ということになります。だとすれば、問題を「タイピングか音声か」という手段の違いとして捉えるのは、そもそも論点がずれているのかもしれません。「構造化という認知的な作業を、誰が(何が)担うか」という軸に組み替えて考えたほうが、実態に近いように思います。

文字起こしの校正で、自分は何を見ているか

もうひとつ、今回の整理を通じて自覚したことがあります。AIの文字起こし結果を確認するとき、私は一字一句を丁寧に読んでいるわけではなく、漢字の部分だけをざっと見て、違和感があるところだけ確認する、というやり方をしています。全数チェックでもなければ、無条件で信用しているわけでもありません。

これは、日本語の文字処理の特性からすると、それなりに理にかなったやり方のようです。日本語の文字体系を扱った研究によれば、漢字は視覚から入ってきた情報が、いったん音声に変換されるプロセスを経ずに、直接意味の理解に届くとされています。ひらがなが音を表す記号であるのに対して、漢字は形そのものが意味と直結している、というわけです。だとすれば、文章の中で「意味が通っているかどうか」を素早く点検したいときに、漢字だけを拾い読みするというのは、無駄のない、効率的な方法だといえます。自分では特に意識してそうしていたわけではなく、ただの手抜きのつもりでいたのですが、実際には理にかなった技術だったようです。

ただし、この方式には弱点もあります。助詞や語尾など「かな」の部分の誤りは、漢字だけを追っていると見逃しやすい、という死角があります。「〜は」を「〜が」と読み違えていても、漢字部分に変化がなければ気づきにくい、といった具合です。全面的な信頼でも精密な検証でもない、「選択的な信頼」というのが、自分の実際のやり方に一番近い表現だと思います。

構造化する労働は、消えたのか

今のワークフローを振り返ると、「短く話す→AIが受け取って整える→気になれば指示を追加する」という反復のなかで、構造そのものが少しずつできあがっていく感覚があります。

これは、構造化という作業を放棄したというより、自分一人の頭の中で完結させていたやり方から、AIとのやり取りのなかで形にしていくやり方へ、様式が変わっただけなのかもしれません。認知科学者のエドウィン・ハッチンスが提唱した「分散認知」という考え方があります。思考というものは個人の頭の中だけに閉じているのではなく、人と道具、あるいは人と人とのあいだのやり取りのなかにも分散して存在している、という枠組みです。今の自分のワークフローは、まさにこれに近い状態だと思います。骨組みを一人で完成させてからAIに渡しているわけではなく、Claudeとの短いやり取りを重ねる過程そのものが、構造を組み立てる作業を兼ねている、という感覚です。

実際、自分でも意外だったのですが、話すときに「これは箇条書きにしておいたほうがいいな」と思う場面だけ、自分でキーボードを使う、という役割分担を無意識にしていました。実装(清書や整形)の部分はAIに渡しつつ、構造をどう組むかという設計の判断は、自分の手元に残していたわけです。これは事前に決めていたことではなく、今回振り返ってみて初めて気づいた自分のやり方でした。

ただし、これが「骨組みを自分でちゃんと作った上でAIに整形を任せている」状態(生成的な構造化)なのか、それとも「誤りを直すだけの調整作業に留まっている」状態(修正的な調整)なのかは、正直まだ自分でもはっきり判断がつきません。加えて、話すときに構造立てて話そうとすると、逆にフィラーが増えたり、言葉に詰まる時間が長くなったりして、直感的にぽんぽん話すほうがやりやすい、という自分の特性にも気づきました。これは能力の優劣というより、単に自分の得意な話し方の癖なのだろうと思います。

この記事を書いている今の時点では、まだこのワークフローに乗り換えて日が浅く、いわゆる「新奇性効果」——新しい道具を使い始めた直後は、その物珍しさゆえに評価が高くなりがちだという、HCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)の分野で知られる現象——の影響を受けている可能性もあります。数ヶ月経って慣れが落ち着いた頃に、この新しい手間が実は何かしら現れていないか、また同じテーマで振り返ってみようと思っています。

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